岐阜の句碑探訪(2005年8月9日〜11日)
1.郡上八幡と古今伝授の里

岐阜県長良川長良橋の左岸にある「おもしろうてやがて悲しき鵜船かな」の句碑
 
 芭蕉ゆかりの地として,名古屋,岐阜,大垣がある。特に長良川の鵜飼いというものと「芭蕉塚蒐」の「あとがき」にある,「此のあたり目に見ゆるものは皆涼し」の句碑を確かめておきたいと思っていたので,岐阜を巡る家族旅行を計画し,周遊コースに世界文化遺産の白川郷と郡上踊りの見物も加えて2泊3日を楽しんできた。

行程:
 1日目=川崎市高津区−中央自動車道調布IC−松本IC−安房トンネル−飛騨高山(昼食)−世界遺産合掌集落白川郷−郡上八幡(泊)郡上踊り見学−2日目=大和町古今伝授の里ミュージアム−郡上八幡散策※−長良川温泉(泊)鵜飼い見物−3日目=金華山岐阜城見学−鵜沼の木曽川河原−多治見市の美濃焼作陶と見学−中央自動車道土岐IC−調布IC−川崎
 ※別行動で根尾谷断層見学と大垣の奥の細道むすびの地探訪
 というコースで岐阜県をほぼ縦断したといってよいだろう。安房トンネルをぬけると家々の屋根が独特の平たい切り妻屋根に変わり,文化圏の違いを感じたが,名古屋のみそかつ風の濃い味は,高山で食べた昼食の,家人もあきれていた朴葉みそに通じるものがある。蕉門としては,悪名高い「美濃派」の根拠地である。




 郡上八幡の愛宕神社にある「古里や臍の緒に泣くとしの暮れ」の句碑 宝暦10年(1760年)池眠魚建立の句碑
 芭蕉没後70年足らずで建てられているから翁塚のタイプで正面は「初祖芭蕉翁」と刻まれている。郡上八幡には「宗祇水」という湧水地があって,かつてかの宗祇がここに庵を結んでいたと伝えられる。この碑以外に花鳥塚などというものもあって俳諧が盛んであったことが伺われる。その割にこの句碑への説明板などはなく,愛宕神社の社の脇にぽつんと置かれていてちぐはぐな感じがした。

古今伝授の里
 鎌倉時代から室町時代にかけてこのあたりを治めていた東氏は歌道に優れた武家として知られている。なかでも九代の東常縁(とうのつねより)は傑出した歌人で「古今集」の奥義を伝授した最初の人と言われ,これを「古今伝授」というのだそうである。郡上八幡から10kmほど北へ行った栗巣川に沿う山里に,東氏の居城であった篠脇城と館跡があり,「古今伝授の里フィールドミュージアム」がある。
  東氏の館跡,この左に続く山が篠脇城跡
 俳句のルーツは連歌。連歌師「宗祇」が常縁から古今伝授を受けたという。さらに宗祇から細川幽斉,松永貞徳,北村季吟,芭蕉という系譜があることを知った。展示館には和歌文学の一級の資料も揃えられていて,広い史跡エリアも含めフィールドミュージアムというこの場所は,訪れた価値があった。

 東常縁の歌碑

 京都で応仁の乱が起こり,当時美濃の守護代であった斎藤妙椿がこの東氏の居城・篠脇城を攻め落した。折しも,東国で父・益之の追善法要を行っていた常縁は,この悲報に次の歌を詠んだ。
 あるがうちにかかる世をしも見たりけり人の昔のなおも恋しき
 これを耳にした妙椿は,胸を打たれ「常縁はもとより和歌の友人なり,
歌をよみておくり給わば,所領をものとごとく返しなん」と言って,常縁はこの碑にある十首の歌を詠んで送り届け,妙椿は城を返したという。
 こういう曰くを知っていると旅は俄然面白くなる。司馬遼太郎の「街道をゆく」郡上・白川のみちを読んでおいて良かった。司馬は,歌で城をとったことを,これを原稿料とすれば,常縁は古今最も高い原稿料をとったことになる,と語っている。彼が訪れたときにはこの博物館はなかったようである。
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