は じ め に

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 現在、全国にある芭蕉塚の総数は二千四百四十二基(平成三年六月四日現在)である。また、手元に保留している資料も二百基程ある。そして、「おくのほそ道」三百年記念を終え、平成五年は、芭蕉三百回忌を迎えるので、益々増えることであろう。が、それはさておき、現時点までの集大成をしておくおくことが、本書の狙いである。また、書名を「芭蕉塚蒐」とするのは、翁塚の存在を無視するわけにいかないからである。芭蕉三十三回忌までは句碑が建立されていない。三十三回忌までに建立された翁塚は二十基を数える。翁塚と句碑の相関関係は別表Tを参照されたい。寛政五年(一七九三)芭蕉百回忌までに翁塚は百五十六基、句碑は百五十五基建立されている。翁塚を無視しては芭蕉塚は成り立たないのである。注=建立年月日の判明率は七〇%である。

 これだけ多くの芭蕉塚を蒐集すると、塚の性格によって分類せざるを得ない。というのは、それぞれの碑面によって「芭蕉翁」とあったり、発句だけが刻まれていたり、道しるべに、発句が刻まれていたりするからである。大別すると三つになる。第一は翁塚で「芭蕉翁」とか「芭蕉桃法師」とか刻まれた、大津膳所の義仲寺の墓や、伊賀上野の愛染院の故郷塚に代表される墓碑とか供養碑である。第二は、翁塚と句碑とを兼ね具えたもので、正面に、「芭蕉翁」とあって、碑陰や左右の側面に発句が刻まれたものや、正面上部、或いは下部に「芭蕉翁」と大書されていて、明いている部分に発句が刻まれているもので、筆者はこれを「翁句碑」と名付けている。第三は、発句のみを刻んだ、所謂「句碑」といわれるものである。しかし、厳密に分類すると、次のように十一種類になる。アルファベットはそのまま分類記号となる。

  A 翁    塚=芭蕉翁・芭蕉桃法師・芭蕉墳・芭蕉翁の墓・芭蕉紙子塚
  B 翁塚陰 発句=正面に芭蕉翁とあって碑陰や左右の側面に発句のあるもの
  C 翁塚  発句=正面に芭蕉翁と大書してあって、明いている所に発句のあるもの
  E 翁塚   銘=これらABCについての由来を記したもの
  F 発句   碑=純粋に発句のみのもの
  G 発句  副碑=句碑の表記とか由来を記したもの
  H 発句和歌 碑=発句と和歌とを併記したもの
  I 連句   碑=発句と脇・第三 或いは付句を記したもの
  J 併記他人発句=芭蕉の発句の外に他人の句を記したもの
  K 他のもの発句=道しるべとか他人の顕彰碑に芭蕉の発句を記したもの
  L 俳    文=紀行文・書簡・俳文を記したもの

 本書の発句、或いは翁塚の表記の上に分類記号の他に番号が付いている。この番号の上二桁は自治省が決めた都道府県のコード番号である。また、市町村の順序も自治省の分類順に従った。下三桁はそれぞれの都道府県の建立基数番号である。

 分類の他に歴史的な変遷も考えられる。墓碑の歴史から考えれば、最初は目印としての石ころであり、樹木であったろう。宝篋印塔や五輪塔等には梵字以外文字が刻まれることがなかった。板碑の時代も正面は梵字であり、裏面に戒名や没紀年が誌され始めるが、あまり文字は刻まれなかった。文字が刻まれるようになるのは江戸時代からのようである。〔但し、例外はある。奈良薬師寺の仏足跡歌碑と高野山奥院の歌碑=正和元年(一三一二)建立されたもの〕従って、享保十一年(一七二六)の芭蕉三十三回忌までは、墓碑の形態をとった分類Aの「翁塚」しか建立されていない。その三年後の享保十四年(一七二九)に名古屋笠寺の笠覆寺で「句碑第一号」が建立された。発句を石碑に刻み込むという発想は、奇想天外というほかあるまい。万葉歌碑は古いように思われがちであるが、その建立は昭和に入ってからのものが殆どである。時代が下がるに従って分類Cの形態に変わっていくようである。「芭蕉翁」と大書されていることは、追善の気持ちが強いからであろう。この時期から句碑、即ち、分類Fに移行していくようである。しかし、「句碑」の大部分が「芭蕉」・「はせを」の署名の他に「翁」の尊称を付けて、「芭蕉翁」・「はせを翁」としていることは、追善の気持ちが残っているからであろう。いずれにせよ、「翁塚」を建立することも、「句碑」を建立することも、芭蕉を顕彰することに他ならない。なお、分類別の建立基数を別表Uで示した。
 
凡     例
分類番号の下の大文字=碑石の正面
         陰=碑石の裏面
         左=碑石の左側面
         右=碑石の右側面
         @=建立年月日
         A=建立者
         B=揮毫者
         C=所在地
         D=参考・資料
 
 
 
 
 

あ と が き

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 昭和六十二年三月、二度と教壇に立つまいと決心した。その心境は、次のようなものである。

   ひたぶるに閑寂をこのみ 山野に跡をかくさむとにはあらず たゞ病身人に倦みて
   世をいとひし人に似たり(中略) 勞して功むなしく たましひつかれまゆをしかめて
   初秋半ばに過ぎ行く風景 朝暮の變化もまた幻の栖なるべしと やがて立ちいでてさりぬ

これは芭蕉翁が幻住庵を去った時の言葉である。以来、三年間、研鑽を積んでいたところ、去年の春、畏友梶原 務氏(日本大学明誠高等学校事務長)の懇望に絆され、再び教壇に立つ事になった。私は、三十年前、この学校の教壇を足掛りに、本格的教師として、巣立った。教え子達に、教え、教わりながら。教え子達は、この学校を巣立って、この学校を母校と呼ぶ。この学校は、私にとっても巣立ちの場である。ある意味において母校と呼べるかも知れぬ。

 再び明誠高校の教壇に立ったことを伝え聞いた、第一期卒業生達が歓迎のクラス会を開いてくれた。席上、たまたまこの「芭蕉塚蒐」の出版のことに話がおよび、早速、出版社探しに奔走してくれたが、各出版社から拒否され、方針を自費出版費用の募金に変え、募金活動に入ってくれたようである。過日、代表の古屋恵美子女史から、有志一同のご厚情の賜物の預金通帳をいただき、翌朝になって事の重大さを悟り、改めて皆様のご懇情に涙したことを思い出す次第である。
 本書は四六版一千三百頁を越す大著作なため、不本意ながら六分冊とする。

 終りに、読者にお願いがあります。本書の資料蒐集には、戦前の地誌が含まれています。従って、町名変更、移建、或いは刻字の誤読、誤字、脱字等、また、未発掘の芭蕉塚等々があります。これらの情報をお寄せください。

       平成三年時雨忌を前にして                  編著者



あとがき(第二分冊)



 昨年七月、初めて京都洛東の金福寺(左京区一乗寺才形町)を訪ねた。蕪村再興の芭蕉庵や「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」の句碑があることで有名である。唯、気掛かりだったのは、地誌に「翁塚」が有るような、無いような、書き方がなされていたことである。門を敲いて、よかった。「翁塚」が存在したのである。かくして芭蕉塚の総数は、一基ふえて二千四百三基となったのである。

 この様に、本書には情報不足の嫌いがある。刻字の誤読、誤字、脱字等、また、未発掘、或いは新規に建立された芭蕉塚等々が有ります。これらの情報をお寄せください。

   平成四年 諏訪大社の御柱祭に思いをよせて              編著者
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あとがき(第三分冊)



 三月一日、梅の香に誘われて、青梅市の吉野梅郷を尋ねた。予て句碑のあることの情報は得ていたものの所在地は不明で、愚息の運転する車の中から、吉野街道の左右に目を光らせていたところ、梅郷(町名)の中心街で見付けることができた。この町に相応しく「梅の香に」の撰句である。F13083がそれである。斯くして芭蕉塚は一基ふえて二千四百四十四基となった。

 「芭蕉塚」は建立以来、大切に保存されてきたものもあるが、数奇な運命に晒されたものもある。一番多いのは洪水による流失である。中には川床から発見されて、修造されたものもあるが、殆どが、川底の何処かで眠っているのが、普通である。また、山崩れによって、谷底に落ちて、二つに割れたりしても、繋ぎ合せて、元のように修復されたものもあれば、そのまま土砂に埋もれたものもあるであろう。もっとも悲惨なのは、戦争中の空襲である。仙台市本のFO4004のように、修復可能な程度の破壊であれば、繋ぎ目のセメントが、目障りになるが、現在の姿に修復されれば、可とすべきである。
 ところが、修復不可能なはど木端微塵に破壊されたものがある。東京江東区森下町、長慶寺の「翁塚」A13044で、「世にふるは更に宗祇の時雨哉」の短冊と芭蕉の落歯を杉風が埋め、杉風・其角・嵐雪・史邦ら江戸の門弟によって建立された、江戸唯一の芭蕉の墓が消滅したのである。

 同じ戦争中のことであるが、埼玉の児玉町の句碑F11089は、鉄製なるがゆえに、供出させられた例がある。鉄製のものは他に例を見ない。また、群馬県渋川市の伊香保道の路傍にあった句碑F10060は、無用の長物ということで、碑面を削られて墓石にさせられてしまったという。戦争中の異常さが伺われる。

 古いお寺に行くと、墓地の片隅に無縁仏になった墓石が累々と積み重ねられているのを見掛けるが、この中を探すと、何かが出てくるのではないかと、思ったりもする。実際に山形市の極楽寺では、縁側の踏石になっていた翁塚A06001が見付かったのである。現在は立派に修復されて、大切に守られている。また、小川の橋板にされていたものもある。埼玉県の岡部町の中山道、道路脇にあった句碑F11104で、何時の間にか、無用の長物として、水田の排水溝の板橋の替わりにされたようであるが、気付かれて修復されている。しかし、未だに橋のままのものがある。清水市興津の清見寺の句碑F22019である。碑面には「西ひがしあはれさ同じ秋の風」とあって、無常を現わす句意をもつことから、街の寂れのもとだということで横倒しのまま放置されていたのを、清見寺の住職が寺内に移築しょうとしたが、反対されて、庭園の泉水の石橋にしてしまったという。この庭園は国の名勝に指定されているので、文化庁の許可がなければ、石橋を移動することはできない。

 以上、数奇な運命に翻弄された「芭蕉塚」について述べ、あとがきに替える。
 例によって、読者にお願い。本書には、刻字の誤読、誤字、脱字等、また、未発掘、あるいは新規に建立された芭蕉塚等々があります。これらの情報をお寄せください。

      平成四年梅雨明をまちながら                      編著者
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あとがき(第五分冊)



 芭蕉の俳文『十八楼ノ記』 に次の発句がある。

   此あたり目に見ゆるものは皆涼し

この句は珍しく字余りである。請書、支考の 『笈日記』を引いている。支考が岐阜で賀島善右衛門 (十八楼の主、芭蕉の招待者、俳人鶴歩) 所蔵の芭蕉真蹟を書写したものという。一方、別案があって、

   此あたり目に見ゆるもの皆涼し             

となっていて、こちらは字余りではない。これも諸書、許六の 『風俗文選』を引いているが、これは、許六の杜撰粗忽であろう。加藤楸邨氏も杜撰と決め付けている。これが「芭蕉塚の世界」 に入っていくと、面白い現象がみられる。この句碑は全国に三八基存在する。撰句碑の基数を比較すると上位にある、三〇基以上建立された句碑を列挙すると次のようになる。

   古 池 や 蛙 飛 こ む 水 の 音                 貞享三年  一〇二基
   春 も や や け し き と と の ふ 月 と 梅         元禄六年    七六基
   し ば ら く は 花 の 上 な る 月 夜 か な        貞享五年    五六基
   む め が か に の つ と 日 の 出 る 山 路 か な   元禄七年    五六基
   物 い へ ば 唇 寒 し 秋 の 風                 元禄年間    五〇基
   山 路 釆 て 何 や ら ゆ か し す み れ 草       貞享二年    三八基
   此 あ た り 目 に 見 ゆ る も の は 皆 涼 し     貞享五年    三八基
   け ふ ば か り 人 も 年 よ れ 初 時 雨          元禄五年    三七基
   木 の も と に 汁 も 鰭 も 櫻 か な             元禄三年    三二基
   観 音 の い ら か み や り つ 花 の 雲          貞享三年    三〇基

いずれも人口に膾灸したものばかりである。それぞれ句意に添った場所に建立されている。例えば「観音の」 の句碑であれば、観音様か観音堂の境内に建立されている。しかし、中には句意にそぐわない場所に建っていることもある。「此あたり」 の句碑も同様に、関東平野の中の水田の小高い丘、利根川・天竜川・長良川等の河畔、印旛治・宍道湖等の湖畔、或いは海岸といった広々とした景観の中にある。地形で分類すると、水田一七基、河畔一〇基、海岸六基、湖畔三基、渓谷二基となる。
 さて、「此あたり」 の句碑であるが、発句にも二形態あったように、碑面も二形態あるのである。全三八基の内、三一基が 「此あたり目に見ゆるもの皆涼し」 の形態 (以下「定型」形とする) で、許六の『風俗文選』を引くことになる。数の上では圧倒的である。残る七基の碑面は、勿論、字余りの「此あたり目に見ゆるものは皆涼し」 (以下「字余り」形とする) である。

 不思議なことに、その五基までが岐阜県下に所在し、残る二基は、茨城県土浦市 (F08005参照) と長野県小諸市 (F20071参照) にそれぞれ所在する。岐阜県下の五基の内、四基は岐阜市内、残る一基は、瑞浪市の白狐温泉 (F21046参照) にある。
岐阜市の四基は長良川の河畔である玉井町・湊町の二町に限られた地域に存在する。そもそも、「十八楼」という建物は、玉井町四番地の加島善右衛門邸宅跡にあったもので、高層の建物からは長良川を一望にすることができたと思われる。この敷地内にあった句碑は、大正中期に湊町の小川旅館(F21001参照) に移されて現存する。残りの三基のうち二基は湊町で、松井寅次郎氏宅 (F21004参照) と十八楼の名を冠した割烹旅舘「十八楼」の中庭 (F21003参照) に所在する。また玉井町の川島氏宅 (F21008参照) にも一基ある。 そこで、どちらの句形が正しいか、ということになる。数の上からすれば、圧倒的に多い「定形」形に軍配が上がることになるが、数の暴力に屈するわけにはいかない。前述した如く、この句は加島善右衛門邸に於いて吟じられたものである。小川旅舘の句碑は、寛政十二年(1800)、加島善右衛門邸宅に建立された。当時『十八櫻ノ記』 の真蹟が加島家にあったのかも知れない。また松井寅次郎氏宅の句碑も寛政十二年の建立である。この句碑も加島家にあった真蹟をもとにしたのであろう。加島家に残された真蹟が長く伝えられたことによって、岐阜市内の四基と岐阜県下瑞浪市の一基の計五基は、かたくなに 「字貪り」形を正しいものと信じて守ったものであろう。
 ならば、岐阜県以外の全国に散在する三一基は、凡て、許六の 『風俗文選』を引いたのか、とも言い切れない。良く確かめもしない杜撰な宗匠がいたのかも知れない。或いはまた賢しらな宗匠がいて、芭蕉が字余りを作る筈がない、としたかも知れない。何れにしても、許六の杜撰さだけに責を負わせる訳にはいかない。個々の宗匠の見識のなさに依るものであろう。
 茨城県土浦市の句碑は、明治三十四年 (一九〇一) に進昇邸なる人物によって建立された。この人物の履歴は不明であるが、蕉風の正しい理解者であったことを窺わせるものがある。一方の長野県小諸市の句碑は建立年月日、建立者ともに不明であるが、賢明なる宗匠が存在したことを証明している。

          平成五年渾仏会                              編著者

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あとがき(第六分冊)



 第五分冊の「あとがきLに続けて「芭蕉塚の世界」について述べる。芭蕉塚を建立年月日の順(建立年月日判明率七一%) に並べると、建立が一基もない、という歳が幾つかある。そういう歳をよく考察すると世相が垣間見えてくる。
 筆者の「昭三」の名は、多くの人につけられ、同名の人のほとんどが昭和三年生れということになっている。但し、筆者は一九二九年生れ、即ち昭和四年の生れである。理由は昭和に生れた三男坊ということらしい。筆者はこの名前が気に入らない。当家には先祖代々「隆」という立派な名乗がある。父親は隆蔵、姉は隆子、兄は隆久に隆二である。筆者一人が他家から養子にきたようなものである。
 閑話休題、この筆者がうまれた昭和四年であるが、不思議なことに、この歳の芭蕉塚の建立は0基である。前年の昭和三年には八基、翌年の昭和五年には六基建立されている。何故、昭和四年に芭蕉塚が建立されなかったのか。理由は大正末期から打ち続く不景気が、全世界を覆い、遂にこの歳の十月二十四日ニューヨークの株式市場の大暴落により、全世界に大恐慌が波及したためであった。景気の動向が、芭蕉塚の建立に影響を及ぼすのが現実の姿であろう。
 御多分にもれず、戦争の影響をまともに受ける。第二次世界大戦の昭和十七年(一九四二)から同二十一年(一九四六) までの間、芭蕉翁建立は0基であった、といっては正しくない。例外的に昭和十八年(一九四三) に五基建立されている。その理由は芭蕉の二百五十回忌だったからである。回忌年になると、如何なる困難をも克服して、芭蕉塚を建てたがる信奉者がいることに驚く。昭和十六年(一九四一)太平洋戦争に突入する。但し、三基建立されている。
理由は開戦が十二月八日という、年末だったからであろう。同十七年、十九年、二十年と0基の歳が続く、敗戦後の混乱の極に達した同二十一年にも芭蕉塚は建立されなかった。遡ると明治三十八年(一九〇五)八月、日露戦争終結、芭蕉塚の建立は0基である。明治二十八年(一八九五)二月、日活戦争終結、芭蕉塚の建立は一基である。恐らくこの一基は戦争終結が二月だったからであろう。全国を内乱状態にさせた戌辰戦争の年、慶応四年(一八六八・九月八日、明治に改元)には、四基建立されている。藤原定家ではないが、「紅旗征戎,朝吾が事にあらず」といった文人が多かったのかも知れない。更に遡ると、天保八年(一八三七)芭蕉塚の建立は0基である。前年より引き続き、飢饉であり、各地に一揆が勃発した。天明の飢饉として有名な、天明四年(一七八四)には、前年に浅間山が大噴火を起こし、引き続き飢饉であったが、二基建立されている。以上の如く、歴史の歪みが見えてくる。
 反対に、建立数の多いのは回忌年である。次に、回忌年による建立数を示す。但し、回忌年の数年前に取越して回忌を供養している場合があるので、実際には十数基増える勘定になる。
  寛保 三 年(一七四三)  五十回忌     一六基
  寛政 五 年(一七九三)   百回忌      六三基
  天保 十四年(一八四三) 百五十回忌      六二基
  明治二十六年(一八九三)  二百回忌      四三基
  昭和 十八年(一九四三)二百五十回忌      五基(第二次世界大戦中)
 御覧の通り、回忌年の建立数は圧倒的である。さて、今年は芭蕉の三百回忌である。一体、何基建立されるのであろうか。仄聞するところによると、滋賀県大津市では平成六年度までに芭蕉の句碑を二十か所に建てる予定だそうである。
 最終巻なので、都道府県別の芭蕉塚建立数の一覧表を掲げる。但し、この一覧表は、芭蕉塚の形態によって分類されている。
 最終巻を発刊するにあたって、万感胸に迫るものがある。この本の出版の切っ掛けを作ってくれた日本大学明誠高校の第一期生の諸君たち、また、日本大学明誠高校内外の皆様方のご懇情の数々、友人知己の芳志など、改めて謝意を表する次第である。また、この本の編集を担当してくれた近代文藝社の宝田淳子女史にも謝意を表したい。

      平成五年立夏                          編著者