芭 蕉 塚 に つ い て     田中昭三    ('90.11.28)

 「奥の細道」三百年記念というのは、元禄二年が西暦1689年だから、1988年がそれなのか、1989年がそれなのか、よく解らない。そして芭蕉 300回忌が、1993年(平成 5年)に確実にやってくる。このような時期に「奥の細道」に関する書物が出版されることは、当然のことなのであろう。

 このブームに火を付けたのは朝日新聞社で、1985年である。以来、本日までに、管見に入っただけで40冊もの本が出版された。内容は、写真集・紀行文・ガイドブック・漫画と多彩である。しかし、蕪村の『奥の細道』画巻や蝶夢の『芭蕉翁繪詞傳』の復刻の如く、高価で購い得ないものもあり、また、御多分にもれず、読むに堪えない駄作も少なくない。

 このような背景のもとに、平成 5年10月12日時雨忌を迎えることになる。大津義仲寺・上野愛染院に於いて、当然 300回忌法要を営むことであろう。しかし、この法要はひとり遺骸塚や故郷塚に留まらない。全国10ヵ所以上で営まれる事になる。元禄 7年11月12日の一月忌日に建立された、名古屋鳴海の誓願寺の翁塚、或いは、百ヵ日に建立された、大垣正覚寺の翁塚等の如く、少なくとも33回忌までに建立された翁塚に於いては、 300回忌法要が営まれる可能性が強い。このような時期にあたって、芭蕉塚の位置付けを明確にすることの必要性を痛切に感ずるものである。

 敢て「芭蕉塚」という標題を使用するには謂れなきとしない。芭蕉の場合、単に句碑だけで問題は解決されない。翁塚も含めて考察されなければならないからである。例えば、尿前の関跡の芭蕉塚を何と説明すべきか。正面に「芭蕉翁」とあって、大津義仲寺のそれと同じものである。が、裏面には「蚤虱」の句が刻まれている。翁塚と句碑が同居している。建立者の考えを類推すると、芭蕉の供養碑の建立を企画したが、場所柄を考えると「蚤虱」の句碑も建立したい、という二重の気持ちの顕れではなかろうか。しかし、客観的に見れば、翁塚から句碑に移行する、過渡期のものといえる。建立も明和五年で西暦1768年、芭蕉没後75年目にあたる。

 現在、全国にある芭蕉塚の総数は2441基を数える。その 5.5%にあたる 134基が翁塚である。にも拘らず、翁塚に正しい評価を与えている識者は少ない。

 20年ほど前になろうか。昭和43年刊の『文学遺跡辞典詩歌編』(東京堂)の巻末にある「古典文学碑一覧表」を見ているうちに二つのことに気付いた。その一つは芭蕉塚が異常に多いことである。一覧表の文学碑の総数は2032基である。その内芭蕉塚が1517基もあり、その他の文学碑は 515基しかなく、西行塚でさえ18基であって、芭蕉一人だけで、優に他の三倍もあることになる。第二は、かなり杜撰である。既に筆者が実見しているものと比較しても、住所が不明確であったり、記載洩れがあったり、正確さに欠けている。そこで、自分なりにもっと正確な「芭蕉塚総覧」の如きものが作れないか、と考えたのが切っ掛けである。

 以来、地誌・文学史・俳諧史の類、地方出版の類書を渉猟すること 600冊。その結果、前記の如く総数2441基の芭蕉塚を集めたのである。(総数2441基としているが、この他に 200基以上の資料を持っている。この情報の提供者は建立年月日と「翁塚」を無視する人で、この情報を入れると建立年月日の判明率が著しく低下するので、敢て、この情報を排除する) これだけ集めると、色々な分析が可能になる。例えば、一番多く撰句されている発句はどれか。第一位、「古池や蛙飛こむ水の音」で74基、二位は、「春もやゝけしきとゝのふ月と梅」58基、三位、「しはらくは花の上なる月夜かな」42基、四位、「物いへは唇寒し秋の風」40基といった具合で、特にこの句碑は、前書「座右之銘/人の短をいふ事なかれ/己か長をとく事なかれ」と一緒に刻まれて、格言教訓として扱われた為に、作者芭蕉の影が薄れてしまった感が強い。この程度の分析は、誰にでも可能なことであろう。しかし、もっと大切なことがある。それは、芭蕉塚そのもののもっている性格(性格といったのは、建立者の思想が含まれるからで、建立者の思惑など無視すれば、形態というべきかも知れない)から分類せざるを得ない。というのは、それぞれの碑面によって、「芭蕉 翁」とあったり、発句のみが刻まれていたり、道しるべに、発句が刻まれたりしているからである。大別すると三つになる。その第一は、翁塚で「芭蕉翁」とか「芭蕉桃青法師」とか刻まれた、大津膳所の義仲寺の墓碑や、伊賀上野の愛染院の故郷塚等に代表されるものである。第二は、前述した尿前の関跡の芭蕉塚の如く、翁塚と句碑の性格を兼ねそなえたもので、正面に「芭蕉翁」と刻まれて、碑陰や左右側面に発句が刻まれたもの。正面上部や下部に「芭蕉翁」と大書されていて、あいている部分に発句が刻まれているもので、高野山奥の院二の橋にある、池 大雅筆の芭蕉塚を思いおこされれば、お解りいただけると思う。第三は、発句のみを刻んだ、所謂「句碑」といわれるものである。しかし、厳密に形態を分類すると、次のように11種類になる。

 別表U 分類別建立基数
記号   名 称   形         態  基 数
 A   翁  塚  芭蕉翁・芭蕉桃青法師・ 芭蕉翁の墓・芭蕉墳   134基
 B  翁塚陰 発句 正面に芭蕉翁とあって碑 陰や左右側面に発句のあるもの   44基
 C  翁塚  発句 正面に芭蕉翁と大書して 、あいている部分に発句のあるもの   148基
 E   翁塚 銘  これらA、B、Cについ ての由来を記したもの   42基
      計 368基
 F   句  碑  純粋に発 句のみのもの  1949基
 G   句 副碑  句碑の標記とか由来を記 したもの     9基
 H   句 和歌  発句と和歌とを併記した もの    3基
 I   連  句  発句と脇 ・第三 或いは付句を記したもの   20基
 J   句他人句  芭蕉の発句以外に他人 の句を記したもの   48基
 K   他のもの  道しるべとか他人の顕彰 碑に芭蕉の発句を記したもの   11基
      計 2040基
 L   俳  文  紀行文 ・書簡・俳文を記したもの    33基
      合計 2441基
  
もう一度、池 大雅の筆になる芭蕉塚を考えてみよう。正面はつぎのようになっている。

      は せ を 翁
     父母のしきりに
     こひし雉子の聲

この「はせを翁」の文字は発句の文字の四倍もある大きさである。普通、作者の署名であるならば、短冊や懐紙で見るように小さいものである。しかも、「翁」の尊称を付けることも不自然である。また、形態Fの句碑の署名も小さいものである。「はせを翁」の四文字と「こひし雉子の聲」の七文字の丈が同じなのである。こんな大きな「はせを翁」という四文字は、署名とは考えられない。では、この四文字は何を意味するのであろうか。その解明は後にすることにして、翁塚の歴史的変遷をたどってみよう。それによって、この四文字の謎も解明されるであろう。(我が明誠高校の隣に曹洞宗安寧山保福寺という禅刹がある。中里介山に因み月見寺ともいう。ここに池 大雅筆拓本による句碑が、大正 6年に建立されている。)

 さて、歴史的変遷を述べる前に、データーを呈示しておきたい。芭蕉塚の総数2441基の内、建立年月日の判明しているのは、1727基で、判明率は70.7%である。このデーターは統計学上、立派に通用する数値であろう。
 ご承知の通り、芭蕉塚の最古のものは、芭蕉の生前、貞享 4年(1687)芭蕉自ら小石を運んで基礎を築いて、鳴海の連中と共に建立した「千鳥塚」である。これには、芭蕉自筆の「千鳥塚」の三文字が刻まれている。次いで、芭蕉没後の元禄 7年(1694)10月中に、伊賀上野の愛染院の故郷塚が建立された。三番目は鳴海の誓願寺の翁塚で、翌月の忌日、即ち11月12日に建立された。四番目が、翌 8年 1月12日の 100ヵ日追善として大垣の正覚寺に建立された翁塚ということになる。さて、ここで義仲寺の墓碑を除いたのには理由がある。その理由は、簡単なものではない。まず、記録を見てみよう。其角の『芭蕉翁終焉記』によれば、
 十二日の申の刻ばかりに、死顏うるは しく睡れるを期として、物打かけ、夜 ひそかに長櫃に入て、あき人の用意の やうにこしらへ、川舟にかきのせ、去 来・乙州・丈艸・支考・惟然・正秀・木節・呑舟・壽貞が子次郎兵衞・予と もに十人、(中略)此期にあはぬ門人 の思いくばくぞや、と鳥にさめ鐘をか ぞへて伏見につく。ふしみより義仲寺にうつして、葬禮、義信を盡し、京大坂大津膳所の連衆、被官從者迄も、此翁の情を慕へるにこそ、まねかざるに馳來るもの三百余人也。淨衣その外、智月と乙州が妻ぬひたてゝ着せまいらす。則、義仲寺の直愚上人をみちびきにして、門前の少引入たる所に、かたのごとく木曾塚の右にならべて、土かいおさめたり。をのづからふりたる柳もあり。かねての墓のちぎりならん、とそのまゝに卵塔をまねび、あら垣をしめ、冬枯のばせをを植て名のかたみとす。
とあるが、これだけではよく解らないので、支考の『笈日記』も引用する。
  十二日(略)障子に蠅のあつまりいけるをにくみて、鳥もちを竹にぬりてかりありくに、上手と下手のあるを見て、おかしがり申されしが、その後はただ何事もいはずなりて、臨終申されけるに、誰も・・茫然として終の別とは今だに思はぬ也。此夜河舟にてしつらひのぼる。明れば十三日の朝、 伏見より木曾塚の舊草に入れ奉りて、茶菓のまうけ、います時にかはらず。埋葬は十四日の夜なりけるが、門葉燒香の外に、餘哀の者も三百人も侍るべし。
   十八日
    所 願 忌
  湖南江北の門人おの・・義仲寺に會して、無縫塔を造立す。面には芭蕉翁の三字をしるし、背には年月日時なり。塚の東隅に芭蕉一本を植て、世の人に冬夏の盛衰をしめすとなり。 (後略)

両者の記録を総合すると、12日の申の刻(午後 3時から午後 5時の間)に臨終、その夜遺骸を長櫃に納め、川舟に乗せて翌13日の朝、伏見に着き、義仲寺に移し、浄衣その他は智月と乙州の妻が縫って用意し、葬儀は14日(時刻不明)に行われ、導師は義仲寺の直愚上人であった。会葬者は 300余人を数えた。埋葬は夜になった。木曾塚の右側に棺を埋め、古びた柳があったが、墓の因縁としてそのままにして、卵塔を真似たものを建てて、粗末な垣根をまわし、冬枯れの芭蕉を植えた、ということになろうか。ここで、問題になるのは、『笈日記』の18日の条である。これによると、初 7日にいたって初めて、無縫塔(卵塔と同じ=多く禅僧の墓)が建てられたような記述である。『芭蕉翁終焉記』によれば、「人々七日が程こもりて、かくまでに追善の興行云々」とあり、続いて18日の追善興行の百韻が記載されている。『笈日記』でも追善の百韻興行のあったことを伝えて、百韻の表三句のみを記し、百韻は省略している。従って、18日に初 7日の法要が催された後に百韻が興行されたことが推察される。しかし、『笈日記』のいう、初 7日に無縫塔を造立した、という記述には納得できない。其角によれば、「土かいおさめたり」とあり、即ち、土葬にしたのである。「そのまゝに卵塔をまねび」とは、卵塔を真似て墓標を建てた、ということであろう。一般に、埋葬すれば、直ちに木の墓標を建てるのが慣例である。支考の『笈日記』に興味深い記述がある。それは、「面には芭蕉翁の三字をしるし、背には年月日時なり。」という記述である。卵塔の正面に「芭蕉翁」の三文字を記し、背面には忌日と時刻を記した、ことを意味する。では、揮毫者は誰なのであろうか。それには、其角説と丈草説の二説がある。何故、二説生まれたのであろうか。埋葬の為に墓標の準備をして、誰が書くか、という段となり、門弟の最長老(年齢ではなく、入門順の意)ということで、去来に推されて書いたものであろう。そこで、一般的に其角説が流布したものと思われる。ここで、もう一度確認しておきたいことがある。それは、埋葬の仕方である。荼毘に付した記録がないから、遺骸を埋葬した訳で、土葬したことを意味する。土葬にすると土が盛り上がってしまう。この盛り上がった土が落ちないかぎり、墓石は建てられないのである。だから、「卵塔をまねび」なので、卵塔を真似て仮の墓標を建てたと考えられる。ここで現在の墓碑を見てみよう。正面は「芭蕉翁」とあって、支考のいうとおりである。しかし、『笈日記』には、続いて「背には年月日時なり」とあるが、現在の墓碑の碑陰には何も刻まれていない。ということは、支考のいう卵塔と現在の墓碑とは違うものになっていることの証拠である。そもそも現在の墓碑は角錐型の自然石である。無縫塔=卵塔というのは、卵の細い方を下にして建てたようなもので、禅寺といわず、寺の住職の墓に多く見られる。また、黒羽余瀬の鹿子畑翠桃の墓がそうである。考えてみれば、現在の墓碑は無縫塔とはいえないものである。其角の『芭蕉翁終焉記』や、支考の『笈日記』のような一級資料を、無比判に受け入れたきらいがある。現在の墓碑と、其角の『芭蕉翁終焉記』と支考の『笈日記』にある無縫塔とは別のものと考えなければならない。では、何時頃、現在の墓碑になったのか。当時、義仲寺の無名庵にあったのは丈草である。丈草は芭蕉没後、三年間の心喪に服し、独り芭蕉の墓守りに徹したのである。その三年の間に墓石が建てられる時期がきて、丈草が建碑の準備をして、自ら「芭蕉翁」の三文字を揮毫して、建立されたものと考えられる。揮毫者の丈草説を唱えるのは、天明期の蝶夢である。蝶夢は高潔・篤実・敬虔な一仏徒で、職業俳人ではなかった。蝶夢ほど芭蕉を敬慕した人は稀で、忌日ごとに義仲寺に詣で、義仲寺の芭蕉堂の修復や、芭蕉の顕彰に生涯を捧げた(『俳諧大辞典』による)のであるから、何らかの証拠があってのことであろう。以上の通り、仮の木の墓標が建ったのは、元禄 7年10月14日かも知れないが、墓碑が建ったのは、元禄 9・10年ということになろう。

 その後、享保12年(1727)の芭蕉33回忌までに、全国で形態Aの翁塚20基が建立された。それらは、墓碑の形態をとっていて、表記は「芭蕉桃青法師」・「芭蕉翁」となっている。この形態の芭蕉塚の造立は、飽くまでも芭蕉を供養するということが主体になっている。例えば、鳴海の蝶羽(知足の長男)が、元禄12年(1699)に無記名の五輪塔を建立している。この五輪塔には「よき家や雀よろこふ背戸の粟」の芭蕉真蹟短冊をうめた。それに因んで、粟塚と呼ばれている。無記名の五輪塔の建立ということは、明らかに供養の為の造立を意味する。この時代の翁塚は、凡て墓碑か供養碑として造立されたと考えられる。何らかの芭蕉の遺品を埋めて、供養がなされている。富山の井波の浄蓮寺には、浪化が義仲寺の芭蕉の墓から小石三ヵを持ち帰って、元禄14年(1701) 7月12日に翁塚「芭蕉翁」を建立している。同じように、李由が彦根の明照寺に芭蕉の三十三回忌の取越法要を一年前の享保11年(1726)10月12日に営み、「笠塚」を築いた。これには芭蕉遺愛の笠が埋められた。芭蕉の33回忌の翌年、享保13年(1728)10月12日に岐阜の養老町の養老寺に翁塚「はせを翁」が建立された。この年まで、合計21基が建立されたが、これらは、凡て翁塚であった。
さて、この翌年、いよいよ句碑第一号が建立される。享保14(1729)の冬に名古屋の支考門の医者丹羽以之によって、名古屋の笠覆寺(通称笠寺)に「星崎の闇を見よとや啼千鳥 芭蕉翁」の句碑が建立される。これが句碑第一号である。「句碑第一号」と指摘されたのは、名古屋の碩学市橋 鐸氏である。氏の調査は東北(奥の細道の足跡範囲)・東海・近畿・北陸とかなり広範囲であるが、全国的な調査ではない。が、市橋氏が句碑第一号と指摘されたのは、市橋氏の思考には、翁塚と句碑とを峻別する考えがあるからであろう。筆者の全国的な調査によっても、この句碑を遡って建立された句碑は存在しない。しかし、この句碑第一号建立後、ぞくぞく句碑が建立されたのか、というとそうではない。その後、芭蕉塚の建立は年を追うごとに増えて行く、その数字を分析すると歴史的変遷が見えてくる。下の表のA、B、Cは形態による分類記号であり、その次の数字は建立基数である。


笠寺の「星崎の闇を見よや啼千鳥」の句碑→
33回忌まで 享保12年(1727) 計 20基
A 20 B 0 C 0 E 0 F 0 G 0 I 0 J 0 K 0 L 0
50回忌まで 寛保 3年(1743) 計 29基     累計49基
A 15 B 2 C 3 E 0 F 6 G 0 I 1 J 2 K 0 L 0
70回忌まで 宝暦13年(1763) 計 57基    累計106基
A 14 B 4 C 15 E 0 F 21 G 0 I 1 J 2 K 0 L 0
80回忌まで 安永 2年(1773) 計 60基    累計 166基
A 6 B 4 C 12 E 1 F 35 G 1 I 1 J 0 K 0 L 0
 100回忌まで 寛政 5年(1793) 計 165基    合計 331基
A 17 B 15 C 29 E 1 F 93 G 0 I 5 J 1 K 2 L 2
  33回忌までは、翁塚のみで、句碑は零である。50回忌までの間になると、句碑は、 6基建立されはするが、Aのみでも15基で、これにB・Cをくわえると20基になり、優に三倍以上である。次に70回忌までを見ると、F21基対A14基で、逆転したように見えるが、B・Cをくわえると、F21基対A・B・C33基で、まだまだ翁塚の方が多いのである。80回忌までに至って、初めて逆転する。 100回忌については、数字を見ていただければ、お解りいただけるであろう。しかし、Aは零にならないことに注意していただきたい。付言するが、Aは明治・大正期にも建立されている。

 古墳時代には墓誌銘があった。しかし、これは人の目に触れるものではなかった。古くは墓の目印として石ころがおかれ、樹木が植えられた。石ころから石塔になる。宝篋印塔などは、まだ文字が刻まれなかったようである。鎌倉期の板碑になって、文字が刻まれるようになる。板碑は墓石とは違うようで、供養塔のようである。墓石に文字が刻まれるようになるのは、かなり新しいことらしい。初期の芭蕉塚の建立者は、凡て墓碑か供養碑を建立しょうとしたのではなかろうか。このような趨勢の中で、墓碑に発句を刻みつけたのである。(実は、名古屋の笠寺の句碑第一号は、白御影石の角柱碑で、普通の墓石と同じである。本堂裏手の墓地が、現在のように整備される以前は探すのに苦労した覚えがある。それで墓碑と表現したのである。(写真参照)この丹羽以之という人間は如何なる人物であったのであろうか。如何なる発想から墓石に発句を刻みつけたのであろうか。奇相天外としかいいようがない。この奇想天外な発想は、寛政 5年(1793)頃から、全国に浸透していく。そして、不思議なことに、句碑ばかりでなく、歌碑も建立され始めるのである。
 ここで、やっと謎解きの時がきたように思う。池 大雅筆の「はせを翁」の謎のことである。これは義仲寺の墓碑に刻まれている「芭蕉翁」と同じことを意味している、と考えざるをえない。何故なら、尿前の関跡の芭蕉塚の正面の「芭蕉翁」も同じで、墓碑と考えられる。「芭蕉」の漢字が、仮名になっただけである。墓碑なるが故に「翁」の尊称が付くのである。それ以外に「翁」の尊称が付く理由が考えられない。従って、墓碑に刻まれるべきものが、句碑に刻まれている、と考えるべきである。

 もう一度、以之の建立した句碑の写真を見ていただきたい。「星崎の闇を見よとや啼千鳥」とあって、下に「芭蕉翁」とあって、字の大きさには、差がないけれども「翁」の尊称が付いている。尊称が付いていることは、墓碑の「芭蕉翁」と同じ意味になる。池 大雅筆の「はせを翁」も尿前の関跡の芭蕉塚の「芭蕉翁」も墓碑なのだと断定できそうである。この考え方を引けば、以之の建立した句碑のそれは、明らかに墓碑の「芭蕉翁」と同じものを刻み付けたのである。実は、芭蕉句碑の署名の所に「芭蕉翁」・「はせを翁」とあって、「翁」の尊称が刻まれている。実数は不明であるが、半数以上と推定される。(推定でものをいう理由は、情報提供者=地誌等の執筆者の中には、署名等を度外視する人、「翁塚」を無視する人、建立年月日に無関心な人。いろいろなので、実数が把握できないのである) 芭蕉句碑の建立者が、尊称の「翁」を付ける意味を意識するか、否か、に拘わらず、墓碑の陰翳を引いていることになる。いずれにしても、芭蕉塚のなかで占める、翁塚の位置をはっきり認識していただきたいものである。

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