義仲寺

 芭蕉翁のねむる義仲寺(ぎちゅうじ)

 木曽義仲がこの地で同族源範頼,義経に破れ葬られたと伝えられ,木曽義仲と隣り合せに芭蕉の墓がある。無名の尼僧が義仲の供養のために草庵をむすび,ねんごろに弔い,その後この尼僧が巴御前であることが分かり「無名庵」ととなえられたのが寺の起こりと伝えられる。この無名庵に芭蕉がしばしば滞在し,遺言で遺骸が運ばれ墓が建てられた。境内は狭いが,供養の思いが込められている場所で,父への追善までオーバーラップする。線香をたむけ,木曽殿,巴御前にもお参りしてきた。
  翁墓

 芭蕉塚について,を読むと確かに昔の人の墓標は簡素なものだったということを教えられる。この碑は安政三年(1856)火災に倒れ,明治29年(1896)には琵琶湖の水があふれたとき,二つに割れたのを修復しているという。
 秋田にある先祖の墓を探しに行ったことがあるが,やはり寺の事情や火災で,分からなくなっていた。だいたい100年以上昔のことになると,よほどの事跡が関係していないかぎり墓のようなものでも分からなくなってしまうのが普通のような気がする。
 多くの人が芭蕉に惹かれるのは,旅によって場所を共有することで時を越え,古今の人と交わりをもったような感覚が詩句に呼び起こされるからだと思う。しかし,現実は無常であることに夢から覚める。芭蕉句碑を建立するのはそれに対するささやかな抵抗かもしれない。
 「行く春を近江の人とおしみける」の句碑

 司馬遼太郎も「街道をゆく」のシリーズの「近江散歩」で芭蕉についてふれ,この句の「近江」を他の国名に変えると,句として成り立たないと述べている。芭蕉の門弟たちも「丹波」ではいけないのかとかいったそうだが,意味もさることながら音としても「近江」がなじむという(芭蕉の耳は高感度)。
 30年前のスライドから,琵琶湖に突き出た膳所(ぜぜ)城址

 芭蕉を幻住庵に住まわせるなど,蕉門屈指の門人菅沼曲水は膳所藩の重鎮で,倫理的感情にあふれなお武士の気質をそなえた人で芭蕉の信頼も厚かったという。こんな風景と,人々が芭蕉と近江を結びつけたのだろう。昭和44年の写真で,この向こうに近江大橋がかけられたのは,昭和49年のことらしい。

参考文献追加
 司馬遼太郎(1984):街道をゆく,近江散歩,朝日新聞社
 

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