奥の細道 立石寺(山寺)

お盆休みにみちのく旅行に出かけた。一昨年の岐阜以来の芭蕉の足跡を訪ねる旅である。何を隠そう平泉中尊寺に行ったことがないのである。2泊3日の家族旅行なので余り無謀な旅程もたてられないし,車だと途中でビールも飲めないので,今回は鉄道を使ってのんびり回ることにした。
 
1日目 東京駅 (山形新幹線つばさ)→ 山形 →山寺 →天童 → 大石田 →銀山温泉泊 2日目 尾花沢(芭蕉資料館) → 新庄 → 最上川船下り →(陸羽東線) 鳴子温泉泊 3日目 平泉へ →東北新幹線(はやて)→東京
それにしても今年(2007年)の夏は暑かった。日本の最高気温記録(山形市40.8℃)が更新されたなんて大事件であろう。奥の細道の行程でも,一番暑い時期にあたる山形(涼しさ,の句がめだつ)の旅はその意味で印象に残った気がする。
 
←涼しさや岩にしみいる蝉の声 といいたい。
 今年になって,慈覚大師円仁の名宝展が開かれた。立石寺で昭和23年に発見された慈覚大師の頭部木像がめずらしく開示されていたので,わざわざ宇都宮まで見に行った。芭蕉が,奥の細道の旅で訪れる仏閣に慈覚大師の名が現われるのは偶然ではなく,平安時代,日本の仏教の定着に,東に円仁と西に空海のふたりが大きく関わっていたからである。大師というと弘法大師空海がポピュラーだが,「大師」という諡号をはじめて与えられたのは円仁の方である。最澄の弟子であり,唐にわたり五台山巡礼ののち帰朝して延暦寺天台座主となった。立石寺の由緒には関東,奥州の鎮護のため寺を建立するよう勅許を賜った,とある。北関東から東北地方には,中尊寺,毛越寺もふくめ日光二荒山など名刹とされる慈覚大師円仁開基の寺が数多くある。このように円仁の活動は国家事業的なものだったと考えられるが,そこから「比叡山にある遺体は棺中より飛び出し、紫雲に乗って彼国に到る」という伝説が生まれたと思われる。おそらく,円仁の弟子たちが遺骨の一部と木像の頭部を,この山寺に入定窟を作って埋葬したのである。
 芭蕉も尾花沢の清風を訪ねて,一見の価値有り,と勧められて訪れた立石寺(山寺)は,こんなところにこんなお寺が,という感じのトポスを持っている。有力者の勧進などとは無縁の,土地の素朴な信仰によって成り立っているような,それでいて中央の慈覚大師との結びつきが謎めいていて引きつけられる。
 もちろん,芭蕉の「閑けさや」の句で一躍有名になったわけであるが,旅の面白みや因縁を集約している場所のような気がする。
 山形の駅から仙山線で山寺駅へ降り立ったが,電車で来る人は少なく,ほとんどの人がマイカーで訪れていた。お参りすると2時間かかりますという,注意書きがあった。まあ覚悟を決めて登ったものの山寺芭蕉資料館まで歩くと,暑さにバテて疲れ切った。
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