嵯峨野 落柿舎

 京都は一生のうち何度来ても,回りきれない場所だ。嵯峨野にゆく途中に池が広がっている景色を見て,何だろうと思うくらいである。広沢の池,大沢の池,であるのを帰ってから知った。池の端に「名月や池をめぐりて夜もすがら」の芭蕉句碑があるらしい。それも後で気がついた。
 そんな知識のままで,嵯峨野は3回目になる。いつも渡月橋周辺の観光地然とした場所にたどり着き,あわただしく歩き回る感じで,今回も同じパターンになってしまった。入念に下調べをして行くべき場所を増やし,ゆっくり訪れるられるようになるころには,こっちの寿命が残り少なくなっているのかと思う。
 それにしてもあっちこっち居候暮らしの芭蕉がうらやましいというか,江戸時代は今よりずっと気楽に暮らせたのかと思ってしまう。落柿舎で書いた「嵯峨日記」を読むとここでなんだかフランス啓蒙主義時代のサロンのようなこと(より清貧でスケールが小さいが)をしていた感じがする。蚊帳一張に五人で雑魚寝したが眠れず,菓子や酒で朝まで話していたとか楽しそうである。それでいて「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」などと恥ずかしげもなく詠めるのも知己にかこまれて,気ままな日々を過ごせたからだろう。
 当時,普通の俳諧師というのは,点取り俳諧とでもいうべきもので,人々の投句にたいして点を付け,優秀者に賞品をだすようなシステムの投句料ではやっていたという
。それとは別に芭蕉のような芸術家が,小規模なパトロンに支えられるというか,存在し得たのは社会の成熟度がかなり高かったといえるだろう。そして,身近な市井の生活にある感動を句に詠み込むことをめざした芭蕉の「軽み」というものが,芭蕉句碑に刻まれる芭蕉晩年の句の多さで,人々に感動を与えて続けてきたことに,気がついた。
 「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」の句碑

 向井去来の隠棲所という落柿舎のあった正確な場所は不明なのだそうである。誰も住まなくなったら崩れて埋れてしまうような草庵だったのだろう。そういう粗末な家に住むというのが普通のことだった当時がまたしてもうらやましい。雨風がしのげ,水を汲んできて飯を炊く,今でも山旅ではテントや山小屋でそうするが,とても楽しい。いま,里でやるとホームレスに見なされてしまうだろうがそれが悔しい。
 太秦への途中にある車折神社の芸能神社

 落柿舎から帰り道,芭蕉塚蒐に句碑があるというので寄ってみた。しかし,句碑は発見できず。代りに,何だろうこの赤い札の奉納者は?と読んでいくと宝塚関係,TOKIOだとかテレビでなじみの芸能人,演歌歌手,茶道,華道,舞踊の家元らしき名字が所狭しとあり,思わず見入ってしまった。どんな由緒があるのか知らないが,日本人の信仰というのは大変わかりやすい。日本人だから当たり前か。

 句碑を訪ねる旅も最後になり,広隆寺の弥勒菩薩の穏やかな顔立ちをおがんでから京都駅に向かった。
 駅で帳尻あわせのように土産を買い,京都発4時過ぎの「のぞみ」に乗り込むと,7時過ぎには自宅に着いた。この効率の良さは,おそらく昔の旅とは全く違っている。振り返えってみると仮想現実ではないが,あわただしく駆け回っていたのがうそのようだ。山を旅すると筋肉痛があり,もうこりごりといった気持ちと疲労が残るが,それが実感というか充足感でもある。それに比べるとなにかもの足りない。

 芭蕉は,風雅の道を俳句という斬新で庶民的な形に大成させた天才である。奥の細道の冒頭にある「舟の上に生涯を浮かべ,馬の口をとらへて老いを迎ふるものは,日々旅にして,旅を栖とす。」という見方には,ただの遁世観とは違った芭蕉の人生に対する優しさや愛情が込められていると思う。今回の句碑を訪ねるという名目の猪口才な大名旅行はもうやめにしよう。自分の身体(=筋肉)を頼りに死んでもおかしくない旅。それが本来の旅じゃないかと思う。歩くなり苦労して,もう少し実体験の多い旅,人とふれあい,情けを感じるような旅をしてみたいと思う。

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