比叡山

 東北には立石寺(山寺)をはじめ,円仁(最澄の弟子,慈覚大師)の開山と伝えられる寺がなぜか100以上もある。父はこのことが気になったらしく,円仁のことも調べていた。円仁は比叡山で修行し,中国に渡り,帰国後天台座主となった。入定後,比叡山に葬られたが,遺体は紫雲に乗って山寺に行き,後に頭部だけは比叡山に戻された,という奇妙な伝説がある。古代東北と中央を結びつける何か謎めいた理由があるのかもしれない。
 延暦寺と芭蕉は何も関係がないようである。近江から京都に出るのに,わざわざ比叡山を越えることもなく,歌枕もなかったからであろうか,句碑もない。堅田から,京都に行くのに現代の車旅行では比叡山ドライブウェイを走って見たくなるのだが,昔の人には思いもよらないことだろう。

 奥比叡ドライブウェイからの琵琶湖大橋

 朝6時にホテルを出て,セブンイレブンでおにぎりを食べ,京都に向かう。
 比叡山からは琵琶湖がよく見える。ドライブウェイの周囲にはカエデやモミジが植えられていて,紅葉シーズには気持ちよさそうだ。
 8時前に比叡山をうろつく観光客も珍しいだろうが,なんだかお寺巡りもほどほどにしたいので十分である。根本中堂の上にある鐘楼の鐘を浄財50円で,目覚ましに一突きしてきた。
 
 比叡山山頂

 比叡山の山頂はどうなっているのかと思って,行ってみた。車で行けるところは,ガーデンミュージアムという展望施設だが,どう見てもその東側にある小さな峰の方が高い。歩いて登ってみたら,木立に覆われて全く展望の効かないところに標高848mの一等三角点があった。車で上ったが,ひとつ山登りをしたことにしておこう。
 比叡山の千日回峯行は,年に100日間山中を歩き続けるのだそうだが,ここにも来るのだろうか?やはりドライブウェイを何回か横断するのだろうな?などと考えてしまった。
 朝の9時前に京都市内についた。落柿舎へ行く途中に一箇所と思い,大徳寺へ。 

大徳寺

 高桐院への道

 大徳寺は,初めて来たときよく分からなかった。どれが本堂なのか,とだれでも思ってしまうのではないだろか。禅寺の塔頭(たっちゅう)という言葉を知り,司馬遼太郎の「大徳寺散歩」を読んでやっと理解できた。禅というのは理屈っぽいが,納得すると心地よいものでもある。とにかく朝から掃き清められ,打ち水がされていてきれいである。人の顔でもそうであるように厚化粧ではなく,自然を生かした手入れというものが清潔で美しく,その心まで表わしている。
 いくつかの門前で,拝観謝絶という立て札を見るのも,禅だとおもえば潔く感じる。普段は公開していない春向院が,大河ドラマ利家とまつにちなんで拝観できた。が,拝観料が600円と高く,長たらしい解説付き,特設お抹茶コーナーありで,こればかりはちょっと厚化粧のように感じた。
 しかし,高桐院はよかった。JRの「そうだ京都行こう」というコピーは嫌いではない。
 高桐院,細川三斎忠興とガラシャ夫人の墓石代わりの石灯籠

 高桐院は細川忠興が父幽斎の菩提のために建てた塔頭である。この石灯籠はもともと利休のものだった。何の変哲もないただの石灯籠に「天下一」の銘をつけたという。晩年の利休は無名の茶器に法外な値を付けたりしたそうだが,それと同じで,この石灯籠を秀吉がほしがった。利休はわざと笠の一部をたたき割り,惜しくも損じてございます,といってくれてやらなかったという曰く付きの石灯籠である。利休切腹の後,忠興のものになった。割られた笠の部分が後ろに向けられている。歴史的エピソードを伝える遺物としては,観光化の難をのがれなお数百年の風雪によく耐えていると思う。
 瑞峯院の茶室の生け花

 瑞峯院に回った。人が少なく,独座庭という枯山水の庭を方丈に座ってゆっくり見た。昔は不可解に思えた枯山水も,歳をとって単純に分かるようになった。人はいくつになってもわがままなもので,わがままの表現がストレートにできなくなるのが歳をとることではないのか。石と砂で山川やら大海を表わすというのは箱庭療法そのものだろう。歳をとってもわがままをストレートに表せるのは天下人秀吉くらいのもので,二畳の茶室で秀吉を怒らせた利休にはじまる侘び寂びの日本文化は屈折しているが面白い。
 瑞峯院の茶室は,使われているらしく,その辺の山野草が生けられていた。
瑞峯院の枯山水

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