石山寺

石山寺の珪灰岩の奇観と多宝塔

 石山寺多宝塔は国宝として,昔の4円切手の図案として有名なので見ておきたかったのだが,石山寺の名の由来が本当の石山であることは知らなかった。瀬田川河畔のこのあたりの地盤が石なので,阪神大地震の時にも他に比べてゆれが小さかったと,泊まった旅館の女将さんから聞いた。山門から境内,本堂とこの多宝塔にいたるどれもが古刹というにふさわしい寺格を保っている,などと司馬遼太郎風に。紅葉のころはさぞかしきれいだろうとおもうが。
 どうしたら,多宝塔の全景が写せるのか分からない。夏で木立が生い茂っているせいもあるが,木がじゃまである。上の写真でも,どうも木々の手入れがされていないのではないかと思う。
 
 最近あちこちでこれと同じことを感じる。木は自然で大切だから,むやみに切らないという高度成長反省後の欧米の自然保護思想の影響かもしれないが,日本の自然は手入れをしないとすぐに原生林になってしまうということが忘れられていると思う。
 自然のままに放ってありますよ,とアスファルトとコンクリートで整備することは乱暴さにおいて同じである。自然に手を入れながらつき合うという日本古来のやり方を復活させないと国土の荒廃は止められなくなると思っているのだが‥‥。このことは,父親の30年前のスライドと比較してみれば明らかになるのではないかと思っている。
 「曙は まだむらさきに ほととぎす」の句碑

 嘉永二年(1894)建立という,円柱形の句碑で,前書に,瀬田に泊まりて曙石山寺に詣 かの源氏の間を見る,とある。
 「寺は石山」の清少納言の枕草子,春はあけぼの‥ようよう‥紫だちたる,から紫式部になるという駄じゃれみたいな句。
 本堂の一角に源氏の間というのがあり,この石山寺で紫式部が「源氏物語」を書き始めたという。四辻善成の「河海抄」という注解書に書かれている伝説で,この源氏の間を作ったらしい。本堂は,平安時代の建物だから本当かとも思うが,本堂で執筆するというのもどうかと。国宝になっている建物なのになんとも納得しがたい。芭蕉も訪れたわけだが,本当かよ?と思っていい加減な句を作ったのでは?と疑ってみた。
 


幻住庵

 山は未申(南西)にそばだち,人家よきほどに隔たり,南薫峰よりおろし,北風湖(うみ)を浸して涼し。比叡の山,比良の高根より,辛崎の松は霞こめて,城あり,橋あり,釣りたるる舟あり,笠取りに通う木樵(きこり)の声,ふもとの小田に早苗とる歌,蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏(くひな)のたたく音,美景物として足らずということなし。
  
  朝から石山寺を参拝し,幻住庵へとやってくる。坂道を上ることが多い観光で少し疲れる。新しい句碑ができていないかなど気にするものだからよけいいらいらして,上の「幻住庵の記」のような心境にはならない。
 幻住庵の跡の碑からから少し登ったところに平成の幻住庵が建てられていた。せっかくなら,もう少し見晴らしをよくして,美景物をみせてほしいと感じるのも,心にゆとりがなかったからかもしれない。
 下りの遊歩道も整備されて,フットライトの句柱が10基あった。これも芭蕉句碑に数えるのか,などとあれこれ考えずに「山路きて 何やらゆかし すみれ草」で好い。
 このほかに,「幻住庵記」全文を陶版にしたものが設置されていた。平成3年に大津市の事業として行われたのだから,父もこの辺の事情は知っていたのだろう。句碑のことでいろいろ考えるのはやめにしようと思った。
 下る途中にある,とくとくの清水

 幻住庵記のなかに「心まめなる時は,谷の清水を汲みてみづから炊ぐ」とあるわき水。私が飲んでみよう,と言うと母がやめてくれ,ボウフラがわいてそうじゃないの,という。でも,由緒書きをよく読むと,芭蕉はここで「我が宿は 蚊の小さきを 馳走かな」と詠んだのだそうだ。思わず,納得の清水で面白かった。 
 芭蕉塚蒐の,幻住庵の句碑の注釈に,「麓の国分一丁目にある泉福寺に芭蕉像あり,一見の価値あり」とあるので帰りに立ち寄って見た。玄関で事情を説明すると,お寺というより普通の家の人が出てきて,確かにありますが,もう蔵にしまってしまいました,と言うことだった。30年前の父のスライドにあったので載せてみた。
 幻住庵への登り口にある道標

 幻住より下が埋まっているが,30年前のスライドでは,庵の字も見え,まっすぐに立っている。こういうのは整備しないのだろうか?

参考文献
 北川静峰ほか(1969):近江の俳蹟,滋賀県俳文学研究会.
 近江文化研究会(1969):石山寺,石山寺.

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