北京  1989年12月28日〜1990年1月4日

この旅行はその年の6月,天安門事件が起こって,たぶん世界史的な激動の時代を感じたMさんが私に行こうと誘わられて出かけたのでした。


← 北京に1週間泊まった前門飯店。市街の南側にあり,天壇公園や瑠璃廠(ルリジャン)からも近く当時としてはまあまあのレベルだった。レストランの朝食には洋風のメニューがあったが,もっぱら中華のお粥に,日本から持っていったのりの佃煮や梅干しをいれてたいへん美味しくいただきました。
 冬の北京は寒く乾燥していて,夜寝るとき毛布と自分の体が静電気をおこして,バチバチ火花を散らすのを覚えている。
翌日,早速天安門広場へ。人民英雄記念碑には,軍の兵士が立っていて,写真のように焼けただれた跡がある。
事件がなくても感動する場所だがここであの惨劇(死者はなかったと中国政府は言ったとか)があったのかと思うと「う〜ん」と感慨する。
 それでも,すでに観光で訪れる中国人の姿も見える。ここの革命博物館や歴史博物館は当時見学できませんでしたがその後どうなったんですか?。今思うと1999年の旅行で確認したかったが,そのことを忘れてました(老化現象)。
このあと,乗り合いバスで明の十三稜と八達嶺(万里の長城)へ行く。万里の長城に登って気持ちよくタバコを吸っていたら,緑色のコートを着た中国人に何事か呼び止められた。なぜか「ニゲン,ニゲン」と叫んでいる。ようやくこの人が警官で,ここは禁煙で,おまえは違反したから罰金“2元”を払えと言っているらしいとわかった。2元を差し出すと,右の紙切れをくれた。恥ずかしい→
 八達嶺ではとても気温が低く,そのせいか撮り終わったフィルムを巻きもどしたら切れてしまった。だから写真がなく,この違反切符が行った証拠。

12月30日 周口店

翌日,タクシーを1日チャーターして,で周口店へ行く。北京原人の発掘あと,原人洞を見学するためである。 こういう発掘あととか遺跡というのは日本だと,ただの碑がぽつんとあったりするだけか,うそくさい観光土産物売り場があるかのどちらかが多いので心配したが,立派な博物館があり,一帯の竜骨山を案内説明つきで見学できてとてもよかった。

博物館

周口店の
位置

発掘現場

地層の説明
帰りに蘆溝橋にも行った。ここで日中戦争が仕掛けられたということと,マルコポーロが「東方見聞録」で美しいと記したことを考えなくても見応えがある。欄干に彫られた獅子の表情が全部違っていて面白い。
ここの近くのレストランで昼食に「青椒牛肉絲」(チンジャオロースー)をたべた。菜単(メニュー)で確かにこの文字を見つけて注文したつもりだが,どうもただのピーマンの細切りの炒め物で肉が見あたらない。しかも,量だけは二人前くらいある。全部食べたが,腹の調子が悪くなり北京に着くなり古観象台のトイレに駆け込んだ。
北京の古観象台

31日 故宮

 次の日は故宮を見学,映画「ラスト・エンペラー」とだぶり,歩きながらあのサウンドトラックが聞こえてきました。M先生にはいろいろと解説していただいてためになりました。
 → とはいうものここは広い。歩き疲れる。部屋の数が毎日別の部屋に泊まっても全部泊まるには27年かかるというだけあるそうです。
 私が単純に「疲れましたね。」と言うと,Mさんは「ここに連れてきてやったのはオレだ。」といった意味のことをおっしゃいます。それは確かにそうでしょうが,私はそんなこと聞いたつもりはないんですが‥‥。
故宮の北の景山に登る。写真ではわからないが,故宮の甍が壮観。お腹がすいたので包子(パオズ)を買って食べた。Mさんに「食べませんか」とすすめると,「いらない」という。
 この景山公園は,北京市民のデートスポットらしく,まわりは中国人アベックばかりだった。なんだか,男二人でこんな所にきてパオズを食べている自分が急に情けなくなった。さっきの巻き返しに「なんでこんなところへ,Mさんと一緒にこなきゃならないんですか?」と言うと,お互い可笑しさがこみ上げてきて笑いだしました。

1月1日 北京郊外

元日の朝,天壇公園へ。今年1年をおもわす祈念した。中国の人たちが太極拳などで健康増進にはげむ姿が見られた。なぜかフリスビーをしている人も多くいた。
バスで頤和園へ。
池が凍っていてスケートができる。靴を借りて私らもやってみました。
 ここも,ふざけるなと言いたくなるぐらい広すぎて歩くのがイヤになった。西太后は輿に乗って移動したんだろうが,そうでもない限りこれは異常な避暑地だ。このあと北京に戻って,瑠璃廠によって,もうほんとに疲れ切った。翌日からは一人一人別行動をとることになり,バスや地下鉄を駆使して市内を回りました。 

 白雲観(道教の寺院)

 当時は,社会主義と改革解放が混然としていて,バスの料金など国営だし安いので払わないで乗る人がいて,それを怒る人がいたり,どうでもよいとなだめる人がいたりする光景を見た。この(1999年)の夏の中国旅行では,そんな光景を見ることもなかった。毛沢東が間違っていたとしても,中国という国の建国のまじめさ,のようなものがなくなってしまうのは,寂しいといったらおかしいでしょうか。